態度と呼応のためのプラクティス|ごろつく息:坂本光太(チューバ奏者)× 和田ながら(演出家)

SOLD OUT
2021年12月29日(水)
開演 19:00 (開場 18:15)
トーキョーコンサーツ・ラボ

この度、若手・中堅の音楽家を起用する企画シリーズ『態度と呼応のためのプラクティス』を開始します。
個々のアーティストがこれまで積み上げてきた経験値や技術を、自らの内に存在する「態度」と定義し、他分野との協働による「呼応」を通じて、その先の未知なる表現へ向かうための実践(=「プラクティス」)に取り組みます。

第1回目となる今回は、チューバ奏者の坂本光太と演出家の和田ながらによる企画を実施します。
実験的技巧や語りの構築といったそれぞれの表現手法を持ち寄り、外へのまなざし、他者との関係という共通の視点をもった両者による試みをとおして、シアトリカルな手法を含む楽曲や既存の器楽作品の解釈に新たな視座を見出し、また、演劇作品としても音楽的要素を含んだ新しい表現を目指します。さらに、身体や声に着目した作品を多く発表している、作曲家の池田萠による新作の発表も予定しています。


プログラム
Vinko GLOBOKAR: ÉCHANGES (1973)
Charlie SDRAULIG: category (2013-14)*日本初演
池田 萠:身体と管楽器奏者による 序奏、プレリュードと擬似的なフーガ(2021)*委嘱初演
坂本光太/長洲仁美/和田ながら:新作(2021)
*プログラムは変更となる可能性があります。
*池田萠作品の楽譜のURLを追記しました(2022.2.21更新)

出演
坂本光太(チューバ奏者)
演出
和田ながら(演出家)
——
長洲仁美(俳優)
甲田 徹(音響)
小原 花(演出助手)
池田 萠(作曲)

会場
トーキョーコンサーツ・ラボ

チケット予約
Peatix:https://toconlab20211229.peatix.com/

チケット料金
一般:3,000円
学生:2,500円
*当日会場受付にて現金でのお支払いをお願いいたします。
スムーズなご案内のため、できるだけお釣銭の出ないようご準備ください。

問い合わせ
東京コンサーツ(Tel: 03-3200-9755 *平日11:00-16:00)

主催
東京コンサーツ 〈文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業〉

助成
公益財団法人 セゾン文化財団 *和田ながらに対して


プロフィール


坂本光太|SAKAMOTO Kota
チューバ奏者。1990年生まれ。現代音楽、実験音楽、即興演奏を中心に活動。ヴィンコ・グロボカール作品の社会参与についての研究を行っている。
近年の出演・作品・リサイタルに、「暴力/ノイズ/グロボカール」(BUoY、東京、2020)、『あそびのじかん』関連プログラム「この宇宙以外の場所」(東京都現代美術館、2019)「Looking Ahead vol.3: 無伴奏チューバの半世紀」(eitoeiko、東京、2019)『OPEN SITE 2018-2019「米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について」』(トーキョーアーツアンドスペース本郷、2018)など。共著に「音楽で生きる方法」(青弓社、2020)。
京都女子大学助教、上智大学非常勤講師。「実験音楽とシアターのためのアンサンブル」メンバー。博士(音楽)。


和田ながら|WADA Nagara
2011年2月に自身のユニット「したため」を立ち上げ、京都を拠点に演出家として活動を始める。同世代のユニットとの合同公演も積極的に企画し、また、美術家や写真家など異なる領域のアーティストとも共同作業を行う。
近年の受賞歴に、「こまばアゴラ演出家コンクール」観客賞(こまばアゴラ演出家コンクール実行委員会、2018)、創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞受賞(福岡市文化芸術振興財団、2015)。
2018年より京都木屋町三条の多角的アートスペース・UrBANGUILDのブッキングスタッフ。2019年より地図にまつわるリサーチプロジェクト「わたしたちのフリーハンドなアトラス」始動。2021年度セゾン文化財団セゾン・フェローI。

photo: Yuki Moriya


長洲仁美|NAGASU Hitomi
茨城県出身。京都造形芸術大学映像舞台芸術学科映像芸術コース卒業。
卒業後に、dracom、大橋可也&ダンサーズ、Marcelo Evelin、したため等の作品に出演。

池田 萠|IKEDA Moe
作曲家。1986年石川県生まれ、大阪府在住。愛知県立芸術大学卒業。IAMAS(情報科学芸術大学院大学)修了。「第33回現音作曲新人賞」入選(日本現代音楽協会、2016)。主な作品に「演奏家の選択」のルールに従ってその場で音楽を生成する「選択音楽」シリーズなど。


*本公演は新型コロナウイルス感染予防、拡散防止への対応策を徹底した上で実施いたします。


公演当日に配布したパンフレットのデータを掲載します。(2021.12.31更新)
>>パンフレットPDF

福尾匠、伏見瞬の2名の批評家による公演レビューと、公演実施に至るまでの記録を掲載したアーカイブを公開します。(2022.2.17更新)
>>アーカイブPDF


プリペアド・ボディ

福尾 匠

 ヒトが言葉を話すようになったのには、直立二足歩行という、樹上生活には不便な、かといって平地を速く走れるわけでもない、なんとも偏屈な体を手に入れたことが深く関わっている。ヒトは立ち上がり、口を使って分節された音を発し始めた。立つと頭蓋が胴体に乗っかり、前方にたわんだ太い頚椎で頭を支える必要がなくなり、口と喉に空間的な、そして機能的なリソースを割くことができるようになったのだ。口腔の形状がさまざまな母音に合わせて移り変わり、鼻に抜け舌をかすめ唇で圧迫される息の経路が子音を形成する。

 坂本光太のチューバ、というより、坂本とチューバの関わりによって、われわれ(の比較的多く)が普段こともなく発し、そのフィジカルな存在を素通りしている声が、萎む肺、窄められた唇、きつく閉じられた瞼とともに、伸び縮みする息へと差し戻され、発声が運動として感覚される。ASMRの囁きは声を息の湿度、口内の湿り気に還すことでわれわれの耳との至近距離を幻聴させるが、ここでなされているのは息の気圧と、ふいごのように息を絞り出す何か筋肉的なものとの回路の実現だ。

 既存の楽譜に基づいたふたつの曲目、ストラウリッジの《カテゴリー》とグロボカールの《エシャンジュ》は、あたかも二段階の発声練習であるかのように公演の前半に並べられている。《カテゴリー》は非常にミニマルに、環境音に合わせて坂本が変化させるチューバにあてがわれた唇・口腔の形と息の圧・量・速度によって、それ自体アンビエントな楽音が微かにうねりながら持続する。

 一転して、フランス語で「取り替え」を意味する《エシャンジュ》ではチューバの入口と出口に拡張的な操作がなされている。坂本は直接吹くのに加えて取っ替え引っ替え三種の異なるマウスピースをチューバのマウスピースの上から接続し、他方で俳優の長洲仁美はミュートとしての三角コーン、プラスチックのたらい、アルミの鍋蓋を取っ替え引っ替えベルに被せている。4通りの吹き口と4通りの出口、そしてさらにそれぞれ4通りの息のダイナミクスとアーティキュレーションの順列組み合わせを演奏は忙しなく走り抜ける。国際音声記号表と睨めっこしながら、[n]は鼻音×歯音、[p]は破裂音×両唇音、[f]は摩擦音×唇歯音……と、ぎこちなく子音の機構を確認する言語学徒のように。

 前足=手がもともと物を掴むための器官ではなかったように発声器官というものはなく、多面的な淘汰圧に押し出されるように口は高度に分節された発声機能を手にした。ギリシア語のorganonが「器具」という意味から音楽的な「楽器」と生物学的な「器官」というふたつの意味に派生した語源学的な来歴を辿るまでもなく、本公演においてチューバは口になり損なう=口になりつつある未然の器官として坂本と長洲からなる筋肉群に取り囲まれている。

 プリペアド・チューバが器官に接近すると同時に、「ふたりの」と「ふたりでひとりの」のあいだにある身体からその自然さが剥奪され、ガチャガチャと部品が組み合わさり、息が我先にとその隙間に殺到するスチーム・パンクなプリペアド・ボディとして立ち現れてくる(冒頭の《浮浪》で長洲が独演するのは擬人化された息の脱出劇であり、坂本が独演する《オーディションピース》で彼は演奏における息への指示を言葉とハンドジェスチャーで実況する)。

 用意された楽器に体を接続すると、体は気づいたら用意されていたものとしての、自然史と歴史をまたいで方向付けられた器具としてのありかたを浮かび上がらせる。音はその相互的な変容の隙間から漏れ出る。用意されていないものとして。


邪魔だけで出来ている

伏見 瞬

 3〜40人の観客が座る部屋の中。チューバ演奏者、坂本光太が客席の前方に現れるのを待っている。すると、一人の女性、身長150センチ強くらいの口元にほくろのあるショートカットの女性が登場し、ダイヤに目がついたキャラクターと「PLAYER」の文字が正面にプリントされた、おそらくコムデギャルソンのものと思われるスウェットを着た彼女は静寂のなかで声を発しはじめ、それはたしか「目が覚めたら・・・痒い・・・」という発語から始まる独話で、起床したら湿ったものに囲まれていたという状況の不快さを説明するこの女性はそこから抜け出そうと滑り台を転げ、道を急ぎ、穴に落ちと七転八倒する様を語るが、次第に語られた抽象的な状況が観客の想像の中で不確かになっていき、それでいて観客に向けた実況のかたちを取り始めた言葉の連なりはより生々しくなっていき、不確かさと生々しさのあわいを生きつつある彼女が出口と思わしき光に向かって体を投げ出すことを説明したあとに「いま、ここにいます!」と声を発した瞬間、つまり言葉からイメージされた抽象的な場所が、東京都新宿区西早稲田2丁目3番地18号1階トーキョーコンサーツ・ラボという具体的な場所に突如すりかわるその瞬間、饒舌な言葉を流し続けていた彼女はだまりこみ、あたりを突然の沈黙が包む。

 10分ほど続いたこの独話は、若手・中堅音楽家のための企画シリーズ「態度と呼応のためのプラクティス」の第一回として「ごろつく息」と名指された公演の一曲目《浮浪》の上演である。演じていたのは俳優の長洲仁美。本公演の主役として予告されたチューバ奏者・坂本がパーカーとジョガーパンツ姿でようやく現れたのは、その後のことだ。

「ごろつく息」は、坂本光太の演奏を、個人ユニット「したため」として演劇活動を行っている和田ながらが演出した公演だ。しかしそのパフォーマンスは、坂本の演奏会を和田が演出でサポートするといった関係性とは大きく異なっている。和田の演劇に、坂本の演奏が組み込まれるという関係でもない。「ごろつく息」は、「演奏」と「演劇」が幾度も高速で入れ替わる体験として感知される。「演じる」ことの生々しさが、戯曲と作曲というあらかじめ決められたプログラムを意識させることなく、目の前で揺れ動く。そのように表すべき時間だ。

  「演じる」ことの生々しさ。こう書くと、ものものしく厳かな芸術的営為のように思えるかもしれないが、実際の表現はもっとファニーで馬鹿馬鹿しい。冒頭の《浮浪》では、演者である長洲のどことなくユーモラスな発話と表情が、観客の含み笑いを誘っていた。次の演奏においては、二人の関係性が可笑しい。坂本がチューバに息を通して小さなノイズを発し、その間長洲は横で突っ立っている。「演奏」という言葉が似つかわしくない小さな音の連続は、チャーリー・ストラウリッジという作曲家によるれっきとした作曲作品《カテゴリー》の実演だ。周囲の環境音を演奏者が解釈せよと指示されたこの楽曲の演奏でも、彫りの深い顔をした坂本のやたら真剣な表情と、長洲のぼーっとした気配の並びが可笑しく感じられる。

 グロボカール作曲《エシャンジュ》の実演では、坂本が勢いよく吹くチューバの出口を、長洲が鍋蓋、青ダライ、赤い三角ポールで交互に塞ぐ。坂本は坂本で、異なる複数のリードを交互に口につけ、鳴る音を変える。結果聞こえるのは、チューバ特有の豊かな低音とはかけ離れたムクドリの鳴き声のごとき甲高い騒音だったり、放屁をアンプリファイしたようなプープー音だったりする。この曲も、吹き方の変化などで256種類の音を鳴らし分ける立派な作曲作品だが、楽曲どうこうより二人の慌ただしい様がとにかくチャーミングで、スマートフォンを真剣に見つめる表情(おそらく楽譜を見ている)が余計に面白い。バスター・キートンやマルクス兄弟によるスラップスティック・コメディの、優れた荒唐無稽を想起させる実演。坂本がサーモンピンク、長洲がミントグリーンのパーカーに着替えてパステルカラーの調和を醸し出しているのも、意味が分からなくて笑ってしまう。 さらにいえば坂本は薄い水色のネイルを塗っていて、パステルの調和はより強調されている。

 休憩をはさんで後半。坂本が椅子に座り、オーディションでチューバを演奏する様を言葉だけで勢いよくリズミカルに説明する《オーディションピース》(和田ながら/坂本光太作曲)、坂本が長洲の体をチューバに見立てて抱えて演奏する《身体と管楽器奏者による序章、プレリュードと疑似的なフーガ》(池田萠作曲)が続けて上演される。ここまで、後半の坂本は一度もチューバを演奏していない。「人間も管楽器も一つの管だ」という強引なアナロジーを牽引力に作曲された後者は、「(音楽用語の)ドローン」の定義を二人で交互に音読するなど、一般的な「演奏」からはおよそほど遠いパフォーマンスである。最後の《一番そばにいる》ではかろうじてチューバが吹かれるが、チューバの金属ボディに映った物体をひとつひとつ羅列していく長洲に邪魔されて、まともな音楽を成していない。坂本が「Too genius」(=天才すぎる)と大きく描かれたドルマンスリーブのカットソーを着ていたのも、「演奏」を邪魔する要素になっている。

 もし「ごろつく息」と名付けられたこのパフォーマンスを音源化したら、全く面白さは伝わらないだろう。どの楽曲も演奏だけでは成り立たず、人の体を無理やり楽器と見立てる、楽器演奏を視覚描写で解体するといった操作によってはじめて成立している。二つの身体と周りの物体が相互に作用しあう(邪魔しあう)状態こそが「ごろつく息」の肝であり、音だけでは相互作用が感じ取れない。身体が劇的な効果を与えるという意味で、それは「演劇」だっただろう。しかし同時に、そこにはまぎれもなく楽器を鳴らすための「演奏」もあった。演劇と演奏のモードが、観客の意識のなかで無限に交代し衝突する。音響を味わう演奏の時間も、人の仕草や言葉を感知する演劇の時間も、「ごろつく息」のパフォーマンスの中では重なって生き続ける。重なることでお互いが邪魔しあい、「演じる」だけが残る。「演じる」ことの生々しい揺れ動きとは、「演奏」と「演劇」の重なりによって生じる、この残余のことだ。
 本公演のプログラムで、和田ながらは以下のように記している。

ごろつく」とは、ごろごろと音を立てること。ごろごろとぶつかること。ごろりと横たわること。働かないでぶらぶらすること。目的もなくうろつくこと。目などに異物があって、すっきりしないこと。

 生命維持のための作用として息が必要なら、「ごろつく」は余計な邪魔者であり、目的を持たない漂流者だろう。異物感をひたすら感知しつづけることが、「演じる」のはじまりにある。体から鳴る音を組織化する。体で別のなにかをイメージさせる。音楽も演劇も有用なものとして社会の運営に関わっているが、「演じる」の無駄な可笑しさは常に生きている。人類の営みのなかで形成された社会性とも、生物の生存本能ともズレた、ふぞろいな身体作用。「ごろつき」に含まれた歓びを、「演じる」は掬い取って差し出す。

 「ごろつく息」における「演じる」は、先進性や偉大さやカッコよさとは無縁で、くだらなくて無駄で仕方ない。そして楽しい。坂本光太がプログラムに書いた「すごくない演奏・偉くない演奏・ショボい演奏」という言葉は、「演じる」ことの「ごろつき」性を的確に表している。