態度と呼応のためのプラクティス|エコーの極点:小宮知久(作曲家)× 木下知威(歴史学者)

2022年12月10日(土)
開演 14:30/18:00 (開場 14:00/17:30)
トーキョーコンサーツ・ラボ

『態度と呼応のためのプラクティス』は、若手・中堅音楽家が異なる専門性を持つ他者との共同制作に取り組む企画シリーズです。両者が、これまで培ってきた経験や技術を固有の「態度」として持ち寄り、互いに向き合い「呼応」しあうことによって、領域を超えた新たな表現の生成を目指します。

シリーズ第2回目となる今回は小宮知久を紹介します。作曲家の小宮は、アコースティックな音楽作品に限らず、身体とコンピュータの間に生じる齟齬に着目した声のためのメディアパフォーマンス作品など、領域や特定の手法に捉われない音楽作品の制作を行なっています。
小宮と共同で制作を行うのは、近代における身体障害の歴史を専門とする木下知威です。ろう者でもある木下は、人間の身体を取り巻く環境や知覚、表象に関心をよせて研究をしています。また、アーティストとともにパフォーマンスを行うなど、多岐にわたる活動に取り組んでいます。
本公演では「エコー」をキーワードに、人間の声や楽器の発する音を介して、ろう者と聴者の間にある音楽の差異、あるいは共通するものを問うことで、知覚の先に存在する音像や音楽のすがたを探求していきます。


出演
小宮知久(作曲者)
木下知威(知覚者)
櫻井愛子(ソプラノ)
茂木光伸(トロンボーン)

会場
トーキョーコンサーツ・ラボ

チケット予約
Peatix:https://toconlab20221210.peatix.com/

チケット料金
一般:4,000円 *代金は当日受付にてお支払いください。
オンライン配信:2,000円 *18:00開演の回のみ

問い合わせ
東京コンサーツ(Tel: 03-3200-9755 *平日11:00-16:00)

主催
東京コンサーツ 〈文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業〉


プロフィール

Photo: Fuka nagata

小宮知久|KOMIYA Chiku
1993年生まれ。作曲家。音楽のさまざまな規範(楽譜、作曲行為、聴取の方法など)を問い直すべく、現代のメディア環境と身体性を考察して新たな音楽を探究している。近年では自身のメディアパフォーマンス作品《VOX-AUTOPOIESIS》シリーズをインスタレーションとして展示した個展「SEIRÊNES」を開催するなど、楽譜ベースの音楽作品から電子音響作品、メディアパフォーマンス、インスタレーションなど領域横断的に制作している。
東京藝術大学音楽学部作曲科卒業後、東京藝術大学大学院音楽研究科作曲専攻修了。
近年の活動や受賞に、小宮知久個展「SEIRÊNES」(2022)。第24回文化庁メディア芸術祭アート部門新人賞(2021)。Music from Japanにより委嘱されNYにて弦楽四重奏曲の初演(2020)。第87回日本音楽コンクール作曲部門(オーケストラ作品)第2位(2018)など。https://chikukomiya.com/


Photo: Yuki Moriya

木下知威|KINOSHITA Tomotake
1977年生まれ。日本社会事業大学非常勤講師。博士(工学)。専門は建築計画学、建築史、身体障害者の歴史。幕末から明治・大正期にかけての盲唖学校(盲人・ろうあ者への教育組織)の建築空間・社会・文化の分析を通じて、盲人とろう者の形成について考察している。また、ろう者の知覚現象についての記述も行っている。
近年の著述に「知覚のクラッシュ」(2020)、「点字以前」(2019)、「ひとりのサバイブ」(2018)、『伊沢修二と台湾』(2018)、「指文字の浸透」(2017)など。https://www.tmtkknst.com/


櫻井愛子|SAKURAI Aiko
東京都出身のソプラノ。NHK東京児童合唱団での経験を活かし、これまでに数多くの声楽曲・合唱曲を初演。主宰する秋山カルテットでは様々な時代・様式・言語の室内楽歌曲を演奏している。令和4年度奏楽堂日本歌曲コンクール歌唱部門第一位、第26回ブラームス国際コンクール声楽部門(ペルチャッハ)第2位他国内外で多数受賞。東京藝術大学大学院声楽専攻及びウィーン国立音楽大学リート・オラトリオ科修士課程修了。

茂木光伸|MOGI Mitsunobu
トロンボーン奏者。洗足学園大学音楽学部卒業、東京藝術大学音楽学部別科修了、バーゼル音楽院修士パフォーマンス科および修士ソリスト科にてディプロム取得。これまでの受賞・活動歴に、「第11回Premio Citta’di Padova」管楽器部門第3位(2013)、現代音楽アンサンブル「アンサンブル・ディアゴナル」のメンバーとしてルツェルン音楽祭への参加(2011)など。


フライヤーデザイン:関川航平

手話通訳:伊藤妙子
テクニカル:横川十帆
映像撮影:後藤 天、今堀拓也
企画制作:西村聡美(東京コンサーツ)
製作:東京コンサーツ

*本公演は新型コロナウイルス感染予防、拡散防止への対応策を徹底した上で実施いたします。


公演当日に配布したパンフレットのデータ、南雲麻衣西村紗知の両名による公演レビューを掲載します。(2023.2.28更新)
>>パンフレットPDF

作品のアーカイブを公開しました(2023.5.22更新)
>>アーカイブPDF


残像がこだまする

南雲麻衣

音楽は「永遠の片思い」なんです。
好きな女の子のことみたいに
さびしいんだけど、ずっと思っていられる。

ろう者の写真家・齋藤陽道が音楽ライブの撮影で感じた音楽について、音楽や音に対する「片思い」という言葉の距離感が絶妙だなと唸ったことは今でも覚えている。聞こえない身体にとって音は遠い存在であり、どんなに音を大きくしても永遠に知覚できないという黒い穴を覗きつづけると吸い込まれるような感覚に似ている。とはいう私も幼少期に聞こえなくなってもう30年になる。
私は、パフォーマーとして舞台に立っている。小さい時に聞こえなくなった私は、表現されるダンスの動きに目を奪われ、身体のリズムや鼓動が伝わる動きに私の身体も共鳴し合いたくなってうずうずしていた。
ちなみに、音は?というと、7歳の時に手術した人工内耳という医療技術によって、100デシベル以上の音を与えないと音が認識できない身体から、25~30デシベルくらいの音が入ってくるようになり、音を知覚できない身体ではなく、内耳に埋め込んだ機械が感知した聞こえてくる音、「音が認識できる」身体に生まれ変わった。
そこで「音」が何かがわかるようになると音の高低、音の連なりを組み合わせたものが「音楽」だとわかるようになり、片思いだった音楽が脳内に鳴り響くようになり、ダンスとの距離が急接近した。但し、誤解しないでいただきたいのは、聞こえるようになったからといって、難なく聞こえるようになったわけではない。音はいわば目に見えない粒子であり、私が受け取れる粒子の数は聞こえる人よりも少ないということだ。
実際、舞台活動では人工内耳を外して、聞こえない身体で踊っている。それには音に操られる身体と音を知覚しない身体でいる方が音に邪魔されずに、のびのびと踊れることを身体で知ったからである。今は、目の前の現象を信頼して踊っている。
ここまで私の身体についてお話したのは、「エコーの極点」のレビューを書いてほしいと依頼されたとき、人工内耳を装用せずに音を知覚しない身体と人工内耳による音がある身体と私はどっちを選択しようか、と会場に着くまでにわくわくしながら悩んだからだ。
会場に向かう途中の千代田線の電車は、どこまでも消えることなく音が発しつづけ、無音が存在しない。ずっと鳴り響いている。
会場に着いて、最初に目に入ったのは一台のピアノ、奥には角の二面の壁に写し出されるプロジェクター、無造作に置かれた譜面台の上にこのパフォーマンスに関連しただろう数々の文献、真ん中には二台のパソコンとタブレット。木下さんが何をやるのかはすでに情報があったので、何かを書くんだろうと思った。しばらくして木下さんが会場に入って椅子に座った。そこで私は人工内耳を外して、音を知覚しない身体の方を選ぶことにした。
プロジェクターに映し出されるテキストは、木下さんが舞台側から客席を見渡し、視覚情報を書き起こしていったものだ。

「首を回している」
「パンフレットを熱心に呼んでいる」
「コートを脱いでいる」
「クッションを膨らませている」


ここでは目の前の現象を視覚という知覚を身体にとおしてテキストに翻訳しているのである。会場にいる私たちもテキストの答え合わせをするように辺りを見渡した。不可解な言葉も現象をみれば納得し(「クッションを膨らませている」と文字が出た時は何故、クッション?と思って対象を探したらお客さんが持参した座椅子のクッションだった。)言葉と視線を追っていくキャッチボールのようなことが交わされた。
冒頭の自分の身体について述べたように、作品のなかでも木下さん自身の身体と音への知覚について、木下さんが手話で説明する。例えば、手と手を鳴らしてもこの音は聞こえませんというふうに。そして、レクチャーが始まり、口話教育の歴史について新約聖書の話から、グラハム・ベルと伊沢修二の発声法について語った。

プロジェクターに映し出されるエコーの極点の図示を使い、音を発したスタート地点から音が消えゆく極点の図示は、まさに見えない音の粒子を単純に視覚化するなら、いま起きているパフォーマンスの現象そのものだった。
木下さんがピアノの上に突っ伏し、目を閉じると、小宮さんがようやく登場してピアノを鳴らした。鍵盤を押すとピアノの音が鳴るという仕組みを理解している私は、音は聞こえなくても理解できるが、それがどういった音なのかはわからない。さまざまな現象を言語記号であるシニフィアンに例えるとすれば、それらは空間に点在し、意味をもつシニフィエは会場にいる人々の想像やイメージに委ねられる。これが音楽が聞こえる者の知覚ではないかと想像しながら、音に呼応した木下さんは目を覚まして再び席についた。小宮さんをじっくり観察し、ピアノの3本足を金色の蹄と書いた抽象的な意味を残したり、イメージの世界に導いたり、音楽的な一節を残していく。二人の呼応はテキストを通じて生成し合っているのではないだろうか。

ここでソプラノが登場する。「あ~」と繰り返し言いながら木下さんの身体を揺さぶった。とくに何かに反応することはなく、ただじっとソプラノを見つめ、肩や腕に触れて声の循環を確かめながら、またテキストにしていった。音は無からは生まれることなく、有機物の微々たるぶつかり合いが音になり、音の連なりが音楽になり、無に向かって吸い込まれるように消えていく・・・をリピートする。まさしくエコーの極点を具現しているのである。段々とソプラノが「見てよ!聞いてよ!」というように木下さんの身体を強く揺さぶって問いかけ、わずかでも音を知覚している器官が反応してくれるのでは?と期待しているかのように、離れた後ろからも絶えずに喉を震わせ続けていた。
応答してくれないのがわかると諦めて退場し、入れ替わるようにトロンボーン奏者が会場をゆっくり周りながらトロンボーンの先は木下さんに向けられる。
会場にある非常口の緑の光とトロンボーンの楽器が重なった時に浮かんだ一節を、色をテキストに起こしたり、トロンボーンのベルを見つめ、楽器という器官に触れて確かめたりしながら、今度は文字をなぞるのではなく、PCに文字を打っていく。それをソプラノは歌うように読み、トロンボーンはベルをミュートで塞ぎ、いかにもトロンボーンが声の器官を宿したかのようにお喋りしていた。そして、トロンボーン、ソプラノ、木下さん、ピアノの数珠つなぎになり、おそらく意識は木下さんに向かって身体に響かせるように、声、息と楽器の摩擦、物体のぶつかりなど、もはやそれは音楽ではなく、無音の身体を息吹かせたいという心情に読み取れた。
おかしかったのは、演奏者のそれぞれの音が木下さんの身体を通過してしまうことだ。そこには音の反芻しない身体があるだけだ。音は他の代わりになれないのだから、ただ一生懸命音を伝えつづけるしか他に方法はない。
最後にそれぞれの演奏者が会場からゆっくり離れて帰っていくが、木下さんは一人で残り、耳の辺りをぐるぐると手で回し、鼓膜にまとわりついている音の存在を手で空気を混ぜて知覚するように動かしていた。
音は届かなくても存在しているということを確かめたいという欲求は、私がパフォーマンスのなかで良くやっているのと似ていた。
音がこだますることを残響と言う。しかし、私の身体で感じた現象はテキストでもよくみる言葉の「残像」だった。音を知覚できない身体にはエコーの「極点」はなく、永遠に鳴り響く。点がなく線がずっとどこまでも消えない。エコーの極点の先が見えたかのようだ。


「足場」に留まること

西村紗知

 

 舞台は、ゆるくカーブを描くように十分間隔の空いた状態で配置された椅子に囲まれて、壁側に2ヶ所、プロジェクターで投影される場所が設けられている。片方には知覚者・木下知威が手元の端末に手書きで書き込む文字が、もう片方には、この日のパフォーマンスの前半にあるレクチャー「イントロダクション」「ろう教育と口」で木下が説明に使う、グラフや図が映し出されるようになっている。客席から目の届く範囲に、ところどころ譜面台の上に本が置かれている。配布されたブックリストに挙げられているのは、例えば夏目漱石『明暗』、佐藤信夫『レトリック感覚』、上野益雄『聾教育問題史』などの全15冊で、これらは身体やレトリック、広く言って知覚の伝達に関わる本として、ここに集められたようなのである。この日のパフォーマンスに関わる参考文献といったところだ。

 間もなく開演というときに、木下が舞台上の椅子に着席し、タッチペンを走らせ始める。筆者は、配布されたプログラム・ノートを読もうと畳まれたこれを広げるのだが、半透明のセロファン紙の表裏に印字されているため、印字されたもの同士が干渉し合ってうまく知覚できない。畳み直して鞄にしまって舞台に目を向けると、木下が客席の様子をずっと記述していたことに気が付く。「プログラムを読んでいる」「スマートフォンを見ている」など、木下は知覚したものを記述していく。観客もまた壁に映し出されたそれらの文字を知覚し直す。

 《エコーの極点》と名付けられたこの日のパフォーマンスは、作曲家・小宮知久と木下との間に交わされた対話の成果である。パフォーマンスはレクチャーとセッションが交互に配置されている。レクチャーは木下が手話で行う。最初のレクチャー「音楽は二度消える」では、この日のパフォーマンスのコンセプトである「エコー」について説明される。エコーとは「音や振動を知覚した後に身体に残存する何か」であるという。物理的な意味での音が消滅した少し後に、身体に残存した振動が消滅する。だが、この日のパフォーマンスを最後まで見届けたのちにわかるのは、残存するのは振動だけではなかったということだ。演奏者の筋肉のこわばりなど、知覚者が実際に手で触れることでわかる触覚的情報、トロンボーンが反射する光の残像など、知覚に集中すれば「残像」はたくさんあることに観客の方でも気が付くことはある程度可能だった。ともあれ、音響現象にまつわるタイムラグが、知覚における残存と消滅の時間的差異が、この日のパフォーマンス並びに作曲の寄って立つ方法を提供しているのである。

 「音楽が二度消える」という知覚理論から出発する小宮のこの日の作曲は、かっちりと全体があらかじめつくられたいわゆる「作品」ではなく、事前に用意されていたのは断片的なもので、その断片が発動するきっかけ、組み合わせの因果関係をどうするかといったことは、知覚者と演奏家に委ねられていたようであるから、パフォーマンス全体としては即興的なものと聞こえる。それらの断片は、プログラム・ノートによると「点の音楽」「線の音楽」「痙攣の音楽」「喋りの音楽」と分類されている。それぞれパラフレーズすると、「点の音楽」は単音の羅列、「線の音楽」はベートーヴェンの第九からの引用、「痙攣の音楽」はトレモロのような音型、そして「喋りの音楽」は、知覚者の書き出す、壁に映し出された文言を読み上げ、これを楽器で模倣することで生み出されるもの、といった具合だ。これら4つの音楽素材は、事前の打ち合わせを通じて知覚者との協働により設定されたものであるようだが、これらの断片が採用された必然性は、観客にとってもある程度は理解できるものだ。「点の音楽」は一つの音に含まれる二つの消失点がわかりやすい素材であろうし、「痙攣の音楽」は振動に特化した素材なのだろうと思う。この日のセッションでソプラノとトロンボーンが採用された理由は、「喋りの音楽」を聞くとわかるように思う。デジタルに音階を出力する楽器では、この断片はあまり首尾よくリアライゼーションできない。全体として、方法論とそこから帰結する作曲のコンセプトとリアライゼーション、これらの明確さが魅力的である。加えて、木下のパフォーマンスの精度の高さもまた、特筆すべき事項だろう。

 知覚者は、作曲家には作曲(不)可能性をフィードバックする。この結果が4つのタイプの断片である。他方、演奏者と触れ合う中では、木下がかつて論考で用いていた表現を借用するなら、演奏者を「知覚のクラッシュ*」の場に変える。何か、演奏者の存在をきっかけに、知覚が破綻する。破綻するまで、演奏者にイメージの見立てが適用され、また演奏者の身体から洞察が引き出されていく。これらはすべて文字になって壁に映し出される。ソプラノ・櫻井愛子は「鳥」「エンドレスのゆうやけ」で「肩の筋肉から骨にかけて音の残像がある」。トロンボーン・茂木光伸は「ソナー」「キリン」で「くろい穴がこちらをみているぞ」という。そうして、人間から、楽器から物の姿が露呈していく。演奏者を覆う表面的なイメージは反故にされる。そこで、知覚以上にならない知覚が実現される。筆者が感じた「知覚のクラッシュ」はこうした次第である。

 思えば、「作品」の理解や解釈という営みは、ある程度同じ知覚が共有されている前提で、その前提をいわば足場にして行われるものである。この日、音楽に備わる共同体組成的な役割を逆巻きに崩していって出来上がった音楽に、会場にいる全員が共有できるものがあったとすれば、その足場の方である。徹底的に「足場」として会場で共有されたのなら、この日のパフォーマンスが成功したと言えるのではないか。単なる「作品」として受け止めたら、その人は「私にはろう者と同じようには音を知覚できない」という現実を度外視していたことになるだろうし、単なる音響のプロセスとして聞くなら、つまり、演奏者同士のコミュニケーションの出力の様態として捉えるなら、月並みな即興演奏と変わらないと感じたことになる。

 「足場」に留まることは難しい。私たちの一部の人間が未だ聖典として奉っている作曲家、ベートーヴェンの耳が不自由だったことを、私たちは時折忘れてしまう。思い出すにしても、悲劇的な物語としてその事実を受け止める以外に、あまり方法をもっていない。ロマン・ロランの方法がよくないと思ったとて、それ以外の方法を別段持ち合わせていないのである。ろう者の経験があり、それを想像することによって健常者が酔いしれるという、こうしたロマン化を退けるためには、明確な方法をもってしてでないと困難であるが、この日は「エコー」という方法によりロマン化への通路は切断されていた。

 徹底的に物の世界であった。それは、社会的な相貌とコミュニケーションの次元とをこの舞台において覆い隠すことでもあり、それゆえ、単なる物の世界であるにもかかわらず同時に美的になりもしたのである。ソプラノが知覚者に触れていくとき、ソプラノは知覚者をしっかり眼差し、それは人間の顔であるが、反対に知覚者がソプラノに触れるときには、ソプラノは知覚者に眼差しを返さないのである。知覚されるものが知覚される「物」に徹する。基本的に、知覚者、演奏者、作曲者はぶつからない。知覚はクラッシュしてもコミュニケーションは失敗しなかったのではないか。人間の顔が知覚者に眼差しを返すなら、互いの知覚が一度でも拒絶されたとしたら、そこにどのような知覚のクラッシュが起こっただろうか、と、筆者は今そんなことを考えている。

*木下知威「知覚のクラッシュ――盲人と聾者における地図表象」(『ユリイカ:詩と批評』2020年6月号)


シリーズ第1回(2021)>>「ごろつく息」坂本光太(チューバ奏者)× 和田ながら(演出家)
シリーズ第3回(2022)>>「ヴォカリーズ・レッスン」松本真結子(作曲家)× 関川航平(アーティスト)